「日本罪悪史観で日本人を洗脳し続ける朝日新聞」

甦れ美しい日本 より引用


 朝日新聞の夕刊に、連載小説と同じような横型のスペースを使った、ドキュメンタリーの記事が長期に渡って連載されている。内容は新聞や電子メディアなど情報に関するものであるが、現在進行中のシリーズは「ジャーナリズム列伝」と題するもので、要するに情報活動を行ってきた人物の紹介である。今まで採り上げられたのは、写真家の石川文洋永六輔で、一人分が三十回に及ぶようだが、現在掲載が続いているのは、記録作家・林えいだいと言う人物で、この記事を担当しているのは論説委員の大矢雅弘である。

 林の活動については第一回で、「徹底した聞き取り調査で、公害や朝鮮人強制連行など民衆を苦しめた『影』の部分を明らかにしてきた」と、大矢がまず紹介していることから、林の活動の傾向は知られるが、林がそうなった原体験として、第二回で出てくるのが、父親の死亡の原因である。父親は神社の神主だったが、「反戦思想の持ち主」で、「炭鉱から逃げてきた朝鮮人をかくまっていた」ために、特高の拷問により衰弱死したのだという。
 林の活動についてはまだ半分ほどの掲載であるが、これまでの中で私が最も興味を引かれたのは、第十二回目の、「なぜ小倉が狙われたのか」と題するものである。8月9日の長崎への原爆投下は、事前には小倉へ投下が予定されていたが、天候の都合で長崎に変更されたとされている。小倉が投下対象になった理由は、この記事の説明によると、風船爆弾を製造していたからで、それが林の調査で明らかになったのだという。風船爆弾については、「和紙をこんにゃくのりで貼りあわせた直径10メートルの紙風船に爆弾を搭載し、7千キロ以上もある米本土まで偏西風を利用して飛ばす作戦は『ふ号作戦』と呼ばれた」と説明されている。

 この大矢論説委員が紹介する、小倉を第一の標的とした理由が、風船爆弾の製造にあったとする、林えいだいの調査が本当に正しいのか否かは、私には分からない。私が極めて異様に感じられるのは、以下に紹介する戦後になってからの風船爆弾を巡る日本人の反応振りである。戦争当時、国内で風船爆弾の気球を一貫して製造していたのは、小倉造兵廠だけあったそうだが、そこには山口県の山口高女の学生が動員されていて、そのなかに現在は82歳になる田中哲子という女性がいた。

 日本で作られた風船爆弾は、偏西風に乗ってはるばるアメリカまで運ばれ、その一つは45年の5月5日にオレゴン州の小さな町で爆発して、ピクニック中の子どもなど6人が死んだ。これが米国本土における、「敵の攻撃による唯一の戦争犠牲者」であるという。「林の取材に協力した田中は林の本を読み、自身が加害者だったことを知り、背筋が冷たくなる思いをした」。そこで田中などの旧山口高女の生徒たちは、「96年6月、風船爆弾の犠牲者を出したオレゴン州ブライ市へ謝罪と慰霊の旅をした」。

 ところで、この事例を日本の場合に当てはめて考えたらどうだろうか。日本では二つの原爆はもちろん、日本全国がアメリカによる残虐無比な空襲によって、何十万もの人間が命を奪われた。とくに焼夷弾を使用し、まず周囲を取り囲んで逃げられないようにしておいてから、中央に投下してむごたらしく焼き殺すという、「絨毯爆撃」なる大虐殺を敢行した。この大量の焼夷弾の製造には、これまた大量のアメリカ人が従事していたに違いない。それらの人間の中には、まだ存命のものも多いであろう。ぜひとも日本にやってきて、謝罪と慰霊をやってもらいたいものである。

 立場を換えてみれば簡単に思いつく発想が、全く出てこないとしたら、日本だけが一方的に悪いのだと言う、東京裁判史観すなわち日本罪悪史観に、日本人が頭を占領されているからである。この記事を書いたのは大矢雅弘記者であるが、大矢記者は朝日の社説を執筆する論説委員でもある。すなわち朝日新聞は戦後66年になっても、日本罪悪史観によって読者を洗脳し続けているわけである。こんな朝日新聞がともかくも一流紙として通用しているのが日本の現状であるから、「東京裁判史観の克服」など言ったところで、その実現は絶望的だと言わざるをえない。