靖国参拝の考察 ケビン・ドーク 米ジョージタウン大教授

2006年05月27日 産経新聞 から転載

■慰霊への干渉は不当

中国政府が小泉純一郎首相の靖国神社参拝を軍国主義や戦争の美化と結びつけて非難することはあまりにも皮肉な倒錯である。いま中国が異様なほど大規模な軍拡を進めていることは全世界が知っている。その軍国主義の中国が日本の首相の神社参拝をとらえて、軍国主義だと非難するのだ。

しかし他国に対する軍国主義志向や戦争美化という糾弾は、その相手側に現実の軍拡とか外国領土への侵犯、外国航空機への攻撃など実際の行動があって初めてできるのが普通である。首相が神社に参拝するからその国が軍事的だという主張は悪い冗談のようであり、靖国をあくまで糾弾するのならもっと真剣な理由を探してほしい。靖国参拝軍国主義と結びつけるのは中国側の口実にすぎないのだ。

中国が靖国を攻撃する背景には政治や外交の武器にするという目的以外に、信仰や宗教を脅威とみて、反発するという現実がある。中国政府は現に国内のカトリック教徒を弾圧し、逮捕までして、バチカンを無視し、自分たちに都合のよい人物たちを勝手に司教に任命している。

中国政府は共産党員に主導され、共産主義者はみな公然たる反宗教の無神論者だ。共産主義の教理上、あらゆる宗教や信仰を本質としては認めないという立場であり、そもそも祈願とか参拝という概念を否定している。その非民主的な指針を民主主義の外国である日本に押しつけようとしているのだ。その指針の適用の行き着く先は、市民の自由や人権の弾圧となる。中国政府は国の内外を問わず、信仰に関する事柄に干渉すべきではないのである。

中国は日本のA級戦犯を非難するが、東条英機氏らがたとえどんな悪事を働いたとしても、毛沢東氏が自国民二千万以上を殺したとされることに比べれば軽いだろう。だが毛氏は死後に中国で最高の栄誉を与えられ、国民が弔意を表する。中国が日本に対して主張する理屈に従えば生前の「犯罪」のために弔意を表してはならないことになるのだろうが、私は中国人が毛氏の霊に弔意を表する権利を認めたい。外部の政府や人間の関知することではないのだ。

同様に米国民は南軍将兵の霊に、日本国民は東条氏らをも含む戦争のために死んだ人たちの霊に、それぞれ弔意を表する権利がある、ということである。だがその哀悼は毛氏や東条氏、さらに米国の場合、南軍司令官だったリー将軍が生前にすべて正しい行動をとったとみなすこととは異なるのだ。米国の場合、政府も大多数の国民も、南軍将兵が不名誉な目的のための戦いで死んだとみなしながらも、彼らの霊は追悼に値すると考えるわけだ。日本の政府や国民が不名誉なことをしたかもしれない人々を含めて戦争犠牲者の先人に弔意を表することも自然であろう。

A級戦犯とされた人たちへの追悼が侵略戦争の美化だと断ずることは過酷にすぎる。戦争犯罪というのはベトナム戦争などの例をみても、一方にとっての犯罪が他方にとっての英雄的行為になりうる。東条氏らも当時、国家の責任ある立場にあって戦争が必要だとの判断を下し、自分たちが正しいとみなしたことを目指して失敗した、ということだろう。その戦争での一方が悪で他方が善という断定をいまになってまた下すことには意味がないし、だれにその資格があるのだろうか。

それよりも戦後の法的処理がすみ、講和がなされた以上、故人たちを指さし、誰が誰よりも悪かったのかと追及することではなく、双方の側の戦没者に弔意を表することが最も適切だろう。私たちはみな深い罪を犯しうる不完全な人間であり、死者に対するときは崇敬と謙虚の念を抱くべきである。

米国の一部には米国政府が靖国問題に介入し、小泉首相に参拝をやめるよう圧力をかけるべきだという意見があるそうだ。しかし日本人が自国の戦没者をどう慰霊するかに他国が介入すべきではない。自由で民主的、平和的な国の、民主主義的手続きで選ばれた政治指導者が年に一度、慰霊の場で戦没者に対し静かに頭を下げるという行為になぜ外国政府が介入すべきなのか。