脱原発の風潮は60年安保闘争に似ている

2011/08/10 田原総一朗の政財界「ここだけの話」から転載

日本を危険な状態に陥れるものという意味で、最近「TKK」という略語が使われる。Tは東京電力、KKは経済産業省日本経団連のことだ。つまり、政官財癒着の構造について言っているのであり、そのTKKによってつくり上げられたのが原発だということになる。

核兵器原発を一緒に論じ「核との決別」を論じる新聞

 脱原発を主張するのは朝日新聞毎日新聞である。8月6日付の朝日新聞は社説で「核との共存から決別へ」と題して次のように書いた。
 「世界各国に広がった原発も、同じ燃料と技術を使い、危険を内包する。(略)核被害の歴史と現在に向き合う日本が、核兵器廃絶を訴えるだけではなく、原発の安全性を徹底検証し、将来的にゼロにしていく道を模索する。それは(略)次の世代に対する私たちの責任である」
 朝日新聞が書いているのは、原発が核の平和利用であるというのは間違いであり、核兵器と同様に非常に危険なものだ、ということである。人類を危険の淵に陥れるものであるから、核兵器とも原発とも決別しよう、という内容である。
 一方の毎日新聞は8日付朝刊のコラムでこう書いた。「それにしても日立製作所会長の次の発言には恐れ入った。『首相が何を言おうと原子力の海外展開を進めたい』(日経新聞7月23日朝刊)」。7月に軽井沢で開かれた日本経団連の夏期フォーラムでの日立製作所会長の発言を日本経済新聞から引き、TKKの2番目のKについて批判したのである。

科学技術に伴う危険を乗り越えてきた歴史

 毎日新聞のコラムはさらに続けて、次のように書いている。
 「毎日新聞7月31日朝刊にモンゴル核処理場計画の続報が出ていた。日米主導でゴビ砂漠に国際共同処分場をつくる。計画を本紙がすっぱ抜き(5月9日朝刊)、地元メディアの批判も高じて立ち消えになったかと思ったら、生きていた」
 毎日新聞は、使用済み核燃料という危険なものを自国で処理せず、モンゴルに押し付けるのはとんでもない話だ、と言っているのである。
 このように朝日、毎日、さらには東京新聞原発に「ノー」を突き付けている。そして、世論もおよそ7割が脱原発に賛成だ。今、脱原発は時代の潮流になっているのである。 だが、私はこの潮流にいささか抵抗感を覚える。
 確かに原発は危険なものだと思う。しかしながら、科学技術というものは常に危険を伴うものであり、いかにそのリスクを抑えて使いこなすかが文明というものだ。
 福島第一原子力発電所で起きた原発事故は、大きな失敗である。車の衝突事故や中国で起きた高速鉄道の追突・脱線事故も同様に失敗だ。なぜ事故が起きたのか、どこに問題があったのかを究明し、そのうえで事故の再発を防ぐにはどうすればよいかを考える。これが私たちの歩んできた文明の歴史ではないか。

原発の科学的・技術的な議論を重ねよ

 ところが、ただちに「原発は危険だからやめよう」ではその歴史に反する。私たちは原発について十分に議論を重ねてきたのだろうか。
 今回の福島第一原発事故の原因は何であったか。原発地震が発生すると運転を自動停止し、緊急冷却装置が作動して炉心の核燃料を冷やす仕組みになっている。ところが、非常用発電装置やポンプなどが津波の被害にあい、冷却機能が失われて事故につながった。
 つまり、原発そのものの事故というよりも、「管理不行き届き」による事故だったと言えないか。であれば、「管理不行き届き」による事故をなくすにはどうすればよいか、あるいは事故が起きたのはどこに問題があったのかについて、科学的・技術的な議論を十分に重ねるべきである。
 そのうえで、やはり原発は人間にはコントロールできないものだとわかり、「原発をやめよう」となるならよい。私は原発推進派ではない。かねてから原発の危険性を指摘した本を何冊も書いている。そんな私から見ても、科学的・技術的な議論が行われないままに、まるでファッションのように脱原発の潮流に乗るのはどうかと思う。

条文を読まずに「安保反対!」と叫んでいた

 何の検証も議論も行われずに脱原発に突き進むのは、ある意味では恐い。私には、それは60年安保闘争と似ているように思える。
 60年安保闘争は、岸信介内閣が日米安全保障条約の改定に取り組んだときに始まった。私は当時、毎日デモに参加し、「安保反対! 岸首相は退陣せよ」と叫んでいた。
 安全保障条約は、吉田茂内閣が取り決め、岸内閣がその条約を改正し、その内容は日本にとって改善されていた。だが、私は吉田安保も改定された岸安保も条文を読んだことがなく、ただ当時のファッションで安保反対を唱えていただけだった。「岸信介A級戦犯容疑者であるから、きっと日本をまた戦争に巻き込むための安保改定に違いない」と思っていたのである。
 当時、東大の安保闘争のリーダーは西部邁氏であった。私は西部さんに「吉田安保と岸安保はどこが違うのか。それぞれを読んだか」と聞いてみた。西部さんは「読むわけないだろう。岸がやることはろくなものではない。日本を戦争に導くだけだ」と言っていた。
 60年安保闘争に参加していた者はほとんど安保条約の中身など読んだこともなく、ただ反対していただけなのである。科学的・技術的な議論が行われない脱原発の動きは、この安保闘争とよく似ていると感じる。

一面的に断じてしまう風潮は危険

 原発は国際的な問題でもある。アメリカやフランス、ロシアや中国、それに日本政府が主導して原発を輸出しようとしているベトナムやトルコなどの各国が原発政策を推進しているのをどうとらえるのか。日本はもっと考えるべきである。日本だけが「はい、原発やめます」で済むのか。脱原発の動きにはそのような国際的な視点がないように思える。
 また、経済産業省事務次官の松永和夫氏、原子力安全・保安院長の寺坂信昭氏、資源エネルギー庁長官の細野哲弘氏の更迭人事。九州電力中部電力四国電力などが行った説明会やシンポジウムで「やらせ」を要請したというのが理由である。
 しかし、経済産業省の官僚を更迭するなら、常識で言っても、その人事権者で責任のある海江田万里経産相も辞任すべきではないか。新聞各紙は、大臣は辞めず3人の官僚が更迭されたのを当然のように報道した。さらに言えば、菅直人首相にも責任がある。菅さんも海江田さんも辞任しないのを、新聞とテレビは批判しない。
 これは、「日本を悪くしているのはTKKである。TKKの言うことはすべて信用できない」と一面的に断じてしまう風潮と同じだ。経産省3首脳更迭人事を見聞きし ていても、「とても危ない」と私は感じるのである。

原発の情報はオープンにすべき

 先日、経産省幹部に会い、また細野豪志原発事故担当相とも話をした。「なぜ、世論調査で7割もが反原発となるのか。原発は必要であるという視点も含め、科学的・技術的な議論をなぜ行わないのか」と彼らに問うと、「いや、今はそういったことを打ち出せる状況ではありません。(もしそうしたら)身の危険を感じます」と言う。これを聞いて、さらに危ないと感じた。
 私はこう加えて言った。「原発がもし危険だと思うなら、情報を隠さないことだ。隠せば悪いことをしているのだろうと世論もマスメディアも判断する。だから、すべての情報を公開すべきだ」
 日本では企業でも役所でも、組織を守ることは情報を隠すことだという体質がある。しかし、今問題になっている原発については、素っ裸になるように広く情報を公開すればよいのである。
 菅首相「退陣3条件」の一つに再生エネルギー特別措置法案がある。企業や家庭で発電された電力をすべて電力会社が買い上げるというものだが、実はこの法案がつくられたのは去年のことである。そして皮肉なことに、震災発生の3月11日に閣議決定された。
 いかにも菅さんが経産省や東電の反対を押し切って実現させよ 、と振る舞っているが、元を正せば、経産省が中心となり東電も協力して同法案をまとめたのである。
 今、TKKは全部悪者だという言われ方をするが、それは誤解ではないか。その誤解を解くためにも、今こそ東電も経産省原子力関連企業も原発に関する情報はすべてオープンにすべきだと思う。

六ケ所村にある使用済み核燃料はどうなるのか

 もう一つ懸念していることがある。菅首相は8日の衆院予算委員会で、高速増殖炉もんじゅ」について廃炉を含めて検討し、核燃料サイクル政策についても抜本的に見直すと言及したことである。
 日本各地にある原発には使用済み核燃料がたくさんあり、それらを青森県六ケ所村で再処理しようとしている。使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出し、残った高レベル放射性廃棄物をガラス固化体にして数十年かけて冷却した後、地中深くに埋める(その処分場所はまだ決まっていない)。
 核燃料サイクルをやめたら六ケ所村にある使用済み核燃料はどうなるのか。担当者に聞いたところ、「それは電力会社が持ち帰るんです」と言う。菅さんは何も知らないので「それはいい」と乗り気らしい。冗談とも思えるような話だ。
 だが、こういうバカバカしいことが、うっかりしていると決まってしまうのである。誰も何も考えていない。他人事。だが、知らぬうちに流れに乗って思わぬ方向へいってしまう。そうした過ちを犯さないようにしなければならない。